八月歌舞伎座

八月納涼歌舞伎@歌舞伎座
第三部の「新版・雪之丞変化」に行ってきました。

若手女形の雪之丞(玉三郎)は実は長崎で両親を悪党に殺されて、
歌舞伎役者のに引き取られ、役者業に励みながら親の敵を討つべく修業を積む
という、仇討ちもの。
でも、その中に「役者とはなにか」とか「芸とはなにか」とか
いろんな葛藤が描かれている。

新版、とだけあって、演出にも相当力が入っている。
スクリーンを使って事前に収録した背景や役者の演技と、
舞台上の生身の役者がセリフのやり取りをするシーンがあったり、
舞台にカメラを構えた黒衣が上がって、
至近距離から役者を撮影したものを
ライブで後ろのスクリーンに流したりする演出とかね。
松竹の本丸歌舞伎座で玉さまがこれをやるって、すごいこと!

八月は南座の超・歌舞伎で獅童が初音ミクと掛け合いをやっていたらしいのですが、映像と掛け合いって流行ってるのかしらん。
映像はタイミングやスピードが決まっているから、
毎回同じに演技をしなくてはいけない生身の役者は気を張るだろうと思う。
カラオケみたいに、ずっと伴奏が流れているわけではないしね。
あと、やっぱりどう頑張っても次元の壁は超えられない。。。
難しいねぇ。。。

特に、舞台役者の生声と収録音声の違いがものすごく耳についてしまって。
収録してある部分が全部「夢」とか「回想」のシーンとして使われているのなら
その違いで区別をうまくつけている、とも言えるかもしれないけれど
観ているその場の流れではあまりそういう区別は感じなかったように思います。
それでハッと思い出したのは、
昔からハーモニカ界隈で続いている「マイク要不要論」。
ハーモニカは音が細いので、他の楽器とやるときや大きな会場の時は
どうしてもマイクに頼らざるを得ない。
マイクはないと困るけれど、そうすると音色が変わってしまうから
他の楽器と足並みが揃わないし、違和感がある。
音が細いからマイクは必要、
うまく付き合っていこうという先生と
あくまで生音は生音同士で、
楽器の生の音を楽しめる空間や工夫で勝負しましょうという先生の
両方とも一理ある議論がずっーとなされていて
両方とも一理あるから決着を見ない訳ですけどね。
なにか、考えるきっかけになるかもしれない。

閑話休題。
この演目、ひとことでいうと「The・玉三郎」。
シネマ歌舞伎で観た方が面白いかもしれない。
というか、シネマ歌舞伎で観ることを前提に作っているのじゃないかなぁ。
舞台に出てくる役者は、
雪之丞の玉三郎丈、
その師匠役に市川中車(=香川照之)、
兄弟子役に中村七之助、
ストーリーテラー・クラウン的存在の鈴虫
の4名だけ。

雪之丞がお役で舞台に立っているシーンは、
実際に玉さまが舞台で踊るのではなくて、
過去の八重垣姫や赤姫や白拍子花子の映像が後ろのスクリーンに投影される。
あの時の玉さまをまた舞台で観ることができるのは、
ファンにとって嬉しいことなのかもしれないね。
それだけではなくて、途中で果敢なくなってしまう兄弟子の
「時を掴め」といういまわの際のセリフや、雪之丞が
「役者、特に女形は世間様のお役に立っているのだろうか」と葛藤するセリフなど、
随所に玉三郎が実際に経験したことなのではなかろうかと
思ってしまうものがあって、それも含めて「The・玉三郎」。

そういうところは面白いのだけど、ここで映像を使うのか、とか
これなら文楽人形にでもやってもらった方が面白いんじゃないかなとか
すべてを映像に置き換えていることに対してちょっと違和感を感じる部分もあり。

中車が映像・早変わりも含めて4役務めていて、なかなか大変そうだったけれど、
先日の長谷川伸の作品やちょっと新派チックな作品には、
中車丈はもってこいかも知れない。

一番観ていてワクワクしたのが、兄弟子役の七之助と玉さまが
歌舞伎談議に花を咲かせるところ。
お酒の入った兄弟子(=七之助)に
「お前さんは将来どんな役をやってみたいんだい?」と言われて
あれやこれや名シーンの希望をだしながら二人で軽く演じるところ。
七之助の痘痕の次郎左衛門なんて、
一瞬、十八世勘三郎が出てきたかと思うくらい似ていたし、
玉さまの揚巻なんて、浴衣姿なのに吉原一の花魁揚巻に見えるっていう。
七之助が助六を演ることも本舞台ではなかなかないでしょうから、
かっこいいなぁと、ちょっと得した気分。

とここまで書いて思った。
もしかして、これって今までのシネマ歌舞伎の集大成?
また新しいステージの扉を開けるための。。。

だとしたら、ますます楽しみになってくる。
ロビーには、先日の演目「幽玄」のシネマ歌舞伎の宣伝が。

観に行く!!

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